禁酒ニーチェの深夜特急ブログ

禁酒をしつつ、深夜特急とロックに影響されすぎ、とことんなりきって書いてみます!

その2  ランについて語る時に僕が語ること dos

さて。このタイトル。確か以前にも書いた気がする。村上御大の本ですね。私の人生においての、バイブル5を選ぶとしたら入ってくる本。今の私のラン熱はこの本によるところがかなり大きい。11月にハーフマラソンに出ることもほぼ決定なので、ちょっと書いておこう。

 

 

 

 

私が、「走る」ということに興味をもったのはいつだっただろうか。

 

子どものころを振り返ってみると、私は走ることはそんなに好きではなった。むしろ、小学生や高校生の体育のマラソンやマラソン大会なんてものは大嫌いだったw理由は。。。たぶん、やらされたからだろう。本当に嫌だった。苦手だったし。

 

 

 

でも高3の時に、いろいろあって頑張ろうと思った。最後のマラソン大会。それに向けて、本当に毎日走った。学校でも家でも走った。何のためだったか。大きな目標はなかった。でも、とにかく、そうすることが大切だと思った。ひたすら走った。人生を走った。

 

 

 

歯を食いしばって練習しているうちに、回を重ねるごとに、確実に自分が向上していくのが分かった。体育で走るのも苦ではなくなっていった。声をかけてくれる人もいた。あの高3の、受験の独特の雰囲気と合わせて、色褪せない思い出となった。今でもそのころの風景を鮮明に思い出すことができる。夜の誰もいない町。川沿いのランコース。友人たちの顔。

 

 

 

ラソン大会当日は15キロ。残念ながら15キロ完走とはいかなかったが、12キロは走ることができた。これでもかつての自分に比べたら、ものすごい進歩だった。2か月ほどだったが、頑張ってよかったと思った。逃げるのは簡単だが、何も得ることはできないと思った。

 

 

 

それからしばらく遠ざかっていたが、ちょくちょく走っていた時期がある。6年ほど前の数か月、4年ほど前の数か月。そして、2年半前の禁酒してから。継続的にやっていたわけではなかったが、断続的には続けていた。大会にも2回出た。そして、ずっと、フルマラソンを走りたい気持ちは心にあった。そう考えると、今が人生で4回目のランナーの時期ということになる。

 

 

 

そして最近。

去年の今ごろの忌まわしい病気3つの事件wこれにより、健康を本当に大切にしようと思った。病気やケガが回復してからは徐々に運動をし始めた。秋からはプールを再開し、週1で行った。

 

 

そしてご存知のパンデミック。。。プールも潜水で25メートルできるくらい上達してたのに。とても残念だった。一瞬酒にも逃げた。でも、それならば走ろうと、もう毎日走ることにした。

 

 

 

禁酒から始まり、早寝早起き、自炊などの好ましい習慣を身につけ始めていたので、ランや運動も習慣に組み込むのはそんなに難しいことではなかった。

 

 

 

3月から始めたので、もうすぐこれも半年になる。最初はまた少しずつということで、1.5キロくらいから始めた。それでも最初はまたしんどく感じた。でも、とにかく走った。酒を飲む代わりに走った。パンデミックのやりきれない気持ちを振り払うために。自分の人生を受け入れるために走った。距離は少しづつ伸びていった。

 

 

 

 

そして今日。。。7キロ走ることができた。毎日3キロ走ることももう歯磨きレベル。これからは週1で海を走りたいし、少しずつ距離を伸ばしていこう。幸せな7キロだった。ハッピーホルモンも出まくりだっただろう。音楽はストーンローゼズの1st。最高だったぜ。

 

 

 

そして嬉しいのは、すぐにラン仲間ができたことだ。久しく会っていなかった友人と先週再会し、刺激を受けた。ここでの多摩川が、今日の湘南のランに結び付いた。

 

 

 

さらに、以前の職場の同僚数人で、マラソン大会に出ることになった。もう飲み会はいらない。飲む代わりに、それぞれがそれぞれの場所で目標に向かって練習し、本番を迎える。本番一緒に走るわけではないが、戦友には間違いない。これはきっと、かけがえのないつながりだと思う。11月のハーフマラソンが楽しみになった。

 

 

 

 

 

昨日今の職場の同僚にそのことを話してみたが、なんだかキョトンとしていたw冗談半分で誘ってみたが、1mmも興味がなさそうだったw他の人にも話したことがあるが、似たような反応だった。すごいね、とは言うものの、全然スゴイと思ってはなさそうな感じw

 

 

人それぞれの世界で生きているから、社会人にもなって、20キロ走るとか、日々練習するとか、理解ができない人もいるのだろう。

 

 

 

そして、ややこう言われているようにも思えた。「そんなことをして一体何になるんですか?」と。

 

 

それは正直私もたまに思う。こうして毎日毎日、汗かいて、歯を食いしばって走ることが、一体何になるのかって。穴の空いた古い鍋に、水を注ぎこんでいるだけの、むなしい行為ではないかって考えたりもする。そう思う時があるのは事実だ。

 

 

 

でも、これは村上春樹の言葉そのままだが、なんとなくぼんやりと日々を送るよりは、目標をもって、日々生き生きと過ごす方がはるかに望ましい。心の底から私もそう思う。そして、走ることは、それを確実に助けてくれるだろう。今までも一生懸命走ってきたが、11月に目標ができたことで、いっそう励みになった。

 

 

 

 

 上に書いたような人たちはじゃあマラソンをしない代わりに、何か好きなことや熱中していることがあるのかと言えば、別にそうでもなさそうだ。もちろん好きではないことをやる必要はない。でも、暇ならば、マラソン大会に出るというのはとても価値のあることではないだろうか。体の健康にも。精神の健康にも。それから日々の充実にも。比ゆ的にも。それを断っておいて、特に何もすることがなく、日々をなんとなく送る、というのはけっこう寂しい気がする。

 

 

 

 

 

今日は朝から走った。時間帯、見る人、音楽、風景。。。何もかもが楽しかった。それから上に書いた友人たちとラインをした。励ましあったり、負けたらおごり、とか話したりした。もうこれだけでも十分なくらいである。もう酒も仕事の話も愚痴もいらない。必要なのは、目標と、それに向かう戦友である。こういうつながりが無駄だったとしたら、一体何に価値があると言うのだろう?

 

 

 

このように考えたら、走ることは決して無駄なことではないはずだ。少なくとも、何かの意味を成すはずだ。何もしないことよりはずっと。

 

 

村上春樹は「空白を獲得するために走っている」と本の中で言っている。今の私には、それがわかる気がする。クイーンやストーンローゼズの音楽に耳を澄ませ、海や人をぼんやり眺めながら走っていると、いろんな考えが現れては去っていく。それが今日の夕飯のこともあれば、昔の思い出がふっと出てくることもある。仕事の嫌なこともあれば、自分の人生寂しく笑いたくなる時もある。

 

 

それらが人通り終わると、あとは一切合切を出し切ったすがすがしい気持ちになる。そう考えると、私はやはり、人生を受け入れるために走っている、というのが1番しっくりくる表現になる気がする。今の私にとって。今の私の走る理由として。

 

 

 

もう酒には逃げない。タバコにも逃げない。だから走る。酒などの薬物による現実逃避とは正反対の、走ることによる現実の受容。ややあきらめにも似たひとつの哲学。自分の体を痛めつけることによって生まれる、人生への理解。ニーチェの言う、能動的ニヒリズムとはこういうことなのだろうか。それはわからない。でも、もっとシンプルに、酒やたばこより、ずっと気持ちいいし、健康的だ。それでいいではないか。

 

 

 

 

だから私はこれからも走ろうと思う。本能的に、理性的に。直感的に。今日を充実させるために。明日を健康に生きるために。そして、友人たちと、レースを終えた後に讃えあうために。

 

 

それが今、私の思うことだ。